title


photo

岸田 裕二 先生
(きしだ ゆうじ)

1984年4月
  都立砂川高校よりご着任
1995年3月
  都立飛鳥高校へご転任
  現在、都立武蔵高校副校長


―近況について―

「今年度より、田無高校のお隣の武蔵高校に勤務しています。 普段は花小金井駅からバスで通勤していますが、休みの日は自宅から自転車でいくこともあります。多摩湖自転車道路を通り、田無高校のすぐ横を通ると懐かしくて、何回か道路から中を覗いてみました。

 武蔵高校では、職員室でパソコンに向かっていることが多く、生徒と話す機会はほとんどありません。生徒は私服ということもあり、学校外で見かけてもどれが武蔵高校の生徒なのか全くわからない状態です。

 田無高校から単位制高校の飛鳥高校、杉並高校の定時制、そして、伝統のある武蔵高校と様々なタイプの学校に勤めてきました。しかし、12年間も勤務した田無高校でのやり方が、私にとって教員としてのスタンダードとなっていると思います。 」

―教員になったきっかけは?―

「現在勤務している武蔵高校への入学を希望していましたが、あの頃は学校群制度があり、三鷹高校へ振り分けられてしまいました。 高校生活はちょうど学園紛争が終了し、もっとも自由な時代であったように思います。あまりまじめな生徒ではなかったので、学校をサボり、よく吉祥寺で遊んでいました。しかし、それでも学校が嫌いだったわけではなく高校生活は楽しかった。それが教師になった一番の理由です。また、学校以外の社会へ出て行く勇気がなかったこともあります。 」

―田無高校での印象深い出来事は?―

「田無高校では、2期・6期・10期と4年ごとに3回担任を持ちました。それ以来、担任を持っていないので、懐かしく思い出します。また、着任した年は、コンピュータ部の顧問でしたが、あまりコンピュータのことがわからず、体を動かしているほうが好きだったので、ハンドボール部の副顧問にしてもらいました。ハンドボール部の指導には熱心に取り組んだつもりですが、選手としての経験もなく、なかなか勝つことができず、部員には申し訳ないことをしたと思っています。

 私的には27歳から39歳まで田無高校で過ごしました。特に飛鳥高校に転任する終業式の次の日が引越しの日でしたが、その日の朝早くに長女が生まれて、長男をつれて病院に通ったり、荷物をつめたりと忙しかったことを思い出します。」

―卒業生にメッセージをお願いします―

「様々な学校を経験し、様々な生徒を見てきました。その中でも輝いて見える生徒は、自分なりの価値観をもち、自分の目標に向かって努力している生徒です。人生の目標は人それぞれだと思います。自分が何をしたいのかをしっかり見据え、自分の生き方に責任を持つことが大切だと思います。」

―取材を終えて―

十数年ぶりにお会いしましたが、卒業しても担任の先生は担任の先生で緊張しました。昔と変わらず、ちょっと飄々としたところはありますが、またそこが先生の味だと思いました。快く同窓会に協力いただきありがとうございました。     

<取材>木ア剛(2期)